第58回 畠山 重篤さん(牡蠣の森を慕う会代表、漁師)
<プロフィール>

(写真撮影:宍戸清孝)
畠山 重篤さん(はたけやま・しげあつ)

1943年中国上海生まれ。三陸リアス式海岸に位置する宮城県気仙沼湾でカキ・ホタテの養殖業を営む。フランス・ブルターニュ地方やスペイン・ガリシア地方を訪ねた体験を経て、森、川、海の関係に目を向ける。89年に「牡蠣の森を慕う会」を仲間とともに立ち上げ、漁民による植林活動を続ける。「どうして漁師さんが山に木を植えるの?」という疑問を持ってやってくる子供たちを体験学習などで受け入れ、すでにその数は5,000人を超える。『漁師さんの森づくり〜森は海の恋人』(2000年、講談社)のほかに、著書に『森は海の恋人』(1994年、北斗出版)、『リアスの海辺から』(1999年、文芸春秋)など。99年「みどりの日」自然環境功労者環境庁長官表彰。2000年環境水俣賞受賞。
「森は海の恋人」。漁師が山に植えるのは人間の心に木を植えること
幸田 『漁師さんの森づくり〜森は海の恋人』の児童出版文化賞の受賞おめでとうございます。「森は海の恋人」運動を通して、自然界におけるつながりの神秘やその大切さを子供たちに伝えてこられたわけですけれども、今回の本を書かれた動機は?
畠山 これまで10年ほどの間に5,000人もの子供が体験学習に来たり、小学校の教科書に私たちの活動が載るようになり、問い合わせがあちこちの学校から来るようになったんですね。「カキの養殖をどうやるんですか?」とか「漁師さんがなぜ木を植えているのですか?」という質問がたくさん来ます。そこで必要に迫られてということと、こういう本を前から書きたいと思っていたのと、両方です。
陸を振り返って見えたこと
幸田 「森は海の恋人」運動は、1964年(昭和39年)、ちょうど東京オリンピックの頃に急にノリに異変が出て、血カキと呼ばれる異変が起きたことがきっかけだったそうですね。
畠山 赤潮プランクトンが出た。カキは1日200リットルも水を吸いますから、赤潮プランクトンが出れば、たちまち身が赤くなる。
幸田 びっくりなさいましたでしょ? それは突如ですか?
畠山 突如ですね。現場でカキをむいた瞬間はたいしたことはないんですが、冷蔵庫に入れて一晩置いて築地の魚市場へ送るとだんだん色が赤くなる。築地の市場から「こんなものは全然売り物にならない」という知らせが入ってくる。そんなことがしばらく続きました。
幸田 どのくらい続いたんですか?
畠山 5年くらい。死活問題です。だからその頃を境に、われわれの言葉で「陸(おか)に上がる」と言うんですけど、海を捨てて陸の仕事に転向する人も随分増えました。
幸田 畠山さんはずっとがんばり通したんですか?
畠山 私はとにかくこういう仕事が好きで、なんとか耐え忍んでいたわけです。
幸田 60年代の高度成長期は「成長=明るい未来」という時代で、開発が急激に行われ公害が悪化した時期でもありましたよね。赤潮プランクトンの一番大きな原因は、海の汚れですか?
畠山 海の汚れに加えて川の問題もあります。ホタテやカキなど二枚貝が食べるのは珪藻類というプランクトンで、外側の殻が珪酸という物質でできている。赤潮プランクトンは珪酸を必要としない別の種類。砂防ダムや川の汚染などによって川の砂から供給されている珪酸の供給が止まると、海のプランクトンの勢力範囲が変わり、赤潮プランクトンが優勢になる。複合的なプロセスです。
 通常、海のことを考えるとき、海は海、陸は陸と分けて考えます。ところが沿岸の海の問題はすべて陸側、人間の側に問題があるんです。開発もあるし、汚れの問題もある。さかのぼって森林の問題まである。昔はどこの家も薪や炭で生活していましたが、薪が石油に変わって、いわゆる雑木林がいらない時代になると雑木林はお金にならないから、雑木林を切ってスギの一斉造林が始まった。ところが、スギの葉っぱは腐りにくい。ナラとかブナの葉は非常に腐りやすく、腐葉土という非常に良い土ができるんですが、スギ林は良い土ができにくい。昭和30〜40年代に一斉に川の河口から上流まで、とにかく海の沿岸部の生物にとって悪いことが、ざーっと始まったんではないでしょうか。
幸田 そういう風に振り返ってみると、点しか見えなかったことが実はつながっているんだということ、そして、その価値を改めて認識しなければいけないということを教えられますね。
畠山 それまで漁師は太平洋の海の方ばかり見ていた。陸側を見るということはなかった。ところがいろんな問題が出てきて、なぜだろうと思って反対側を見ると、陸の方にさまざまな問題が横たわっているのが初めて見えてきた。「これは大変だ、何とかしなきゃ」と。
人の心を介して海と陸をつなぐ
幸田 その最中でしたか、フランスに行かれたのは。思い切った決断をされたんですね。
畠山 私は子供の頃から旅行少年で、親父がいろんな所へ連れていってくれたので、どっかにぱっと出かけるのを全然苦にしないんですよ。高校の頃もいろんな所へ貧乏旅行しました。ですからそういう話が来たときにも、行かなきゃいけないと。
幸田 広葉樹の森と川、海のつながりをここで改めて確認された?
畠山 子供の頃、私は家の前の海でウナギをとっていたんですよ。高校の時まではそれをとるアルバイトをやっていました。日本のウナギはフィリピンの近くで産卵をして、2,000km先から日本の川に上がってくる。日本ではウナギの稚魚(シラスウナギ)は高価で、それらを集めては養殖しているのに、フランスのロアール川河口ではシラスウナギが名物料理になっている。非常にびっくりしました。「これは川がいいんだ」というのがパッとわかりました。そこにはブナやナラ、いわゆる落葉広葉樹の森がずっと広がっているんです。
幸田 大きなつながりが見えたということですか?
畠山 日本に戻って、気仙沼湾に流れ込んでいる大川を、河口から上流まで歩いて見てきたら、たった25kmの間にいろんな問題が横たわっていることがわかりました。沿岸はコンクリートで全部囲われ、ゴミもすごい。フランスに比べたら泣きたくなるような光景なわけです。それから田んぼが昔に比べてすごく静かなんです。昔の田んぼはいろんな生き物がいてにぎやかだったんです。農薬や除草剤など農業も問題があるなと思ったわけです。さらに川にはダムの問題もある。また山へ行けばスギ林ばかり。
 気仙沼は宮城県ですが川の上流は岩手県です。宮城県は宮城県のことしか考えない。また行政では海の担当者は海のことだけ、川の担当者は川だけ、山の担当者は山だけと、バラバラです。でも川はつながっている。
 最後は人間の問題、つまり人間が何に価値観を持ってどう生きるかということまで行く話だなと、そこで私は見えたわけです。いずれ教育しかないなと15年前の当時すでに思っていました。人間の気持ちを「自然を大切にする」という方へ振り向けなきゃいけない。川の流域に住んでいる人たちの気持ちを動かさないと最終的には解決できないなと思った。
 そこで川の上流に漁民が落葉広葉樹の森をつくるのはどうだろうか、意外性もあり、流域に住んでいる人すべてに益をもたらすことなのだから、だめだと言う人はいないだろうと。自然は全部つながっているということを知ってもらおうと思ったわけです。
幸田 著書を読むと、図書館でお調べになったり、大学の先生にお会いになったり、自ら行動を起こされていますが、若いときに旅をしていることも影響していますか。
畠山 私が旅するところはだいたい人の生活がある川の近くが多い。心の中に残っている風景には必ず川、川と海との接点がある。
 河口にはいろんな生き物が来る。ウナギ、サケ、アユやカニ。生き物の十字路なんです。人間も舟で出たり入ったりする。歴史的にも河口はものすごく面白いところ。だから河口に立って海側と陸側を見ればいろんなことが見えてくるという面白さを、私は子供の頃から旅行しながら培っていた
森と川が日本列島の基本
幸田 山に木を植え始めて13年ということですが、効果はいかがですか?
畠山 漁師が木を植えるのは、「森から川と海とが全部つながっているんだよ」ということをどうやって皆さんにお知らせできるかということの象徴です。むしろ人間の心に木を植えるという意味合いの方が強い。もちろん3万本ばかり木を植えたって自然が変わるはずはないのですが、大川はきれいになっています。しかし、それは川の流域に住んでいる人たちの意識がガラっと変わってきたから。行政も変わってきて、宮城県はダムもやめたんです。中止ですよ。
 ダムの問題は、人間の水に対する欲望をどこまで満たすかという問題です。便利さだけを追求したら全国ダムだらけになってしまう。最後はこれも人間の問題ということになると思いますね。だから、子供たちに水ってどういうものかということを教えています。本当に水が足りなくなったらどうするんだって、誰も突き詰めた考えはしてないんですよね。
幸田 とても重要なご指摘ですね。
畠山 今のような状況で人間の欲望のままにどこまでも便利な生活を追い求めていけば、結局、沿岸域の海に全部しわ寄せが来る。海のへりは昔から生き物が息づく、魚介類・海藻がとれるゆりかごみたいなところですよね。海側にいる漁師が一番そのことは見えている。私たちは重要なポジションにいるなと。
 日本という国は、真ん中に森林があって太平洋と日本海に川が3万本も流れ込んでいる。だから、その一番のもとをしっかりしておくことが、この国をちゃんとした形にしておくことになる。沖積平野で森から流れてきた水でお米を作り、そこから水は海に流れて魚や貝、海藻を育む。日本という国を考える時、「森は海の恋人」という考えは、最も基本的な「この国をどういうふうに保っていくか」ということのベースになる。
幸田 最後に、これからの夢を聞かせてください。
畠山 子供だけでなく、例えば企業の環境関係の研修など大人も含めて研修施設をつくりたいと考えています。宿泊は近くの国民宿舎で、わが町にもお金が落ちるように。環境教育のメッカにしようかと思います。
幸田 どうも素晴らしいお話、本当にありがとうございました。
(2001年5月30日東京都内にてインタビュー)
インタビューを終えて
 昭和30年代に始まった日本の高度経済成長――。その負の部分が牡蛎養殖業を直撃したという畠山さんの体験談は、実に印象的でした。
 「通常、海は海、陸は陸というふうに分けて考えていますよね。ところが、海の縁というのは、だいたい人間側に問題があるんです。開発もあるし、汚れもある。海の生物にとって都合の悪いことが、その時期(高度経済成長期)を境に、ざーっと始まったということではないでしょうか」
 森も川も海も互いに支え合い、つながりをもって存在している。そのことを教えてくれた畠山さんのもとには、今も全国から多くの子供たちが体験学習に訪れるそうです。畠山さんの「森は海の恋人」運動が、さらに海を越えて、世界に広がっていってほしいと思います。 (幸田 シャーミン)




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